サイエンス・フィールド

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鷲田清一著「哲学の使い方」感想

哲学博士号

博士号を取得するということは、研究者として活動を行うための第一歩である。しかし、博士号を取得するということの意味についてきちんと考えたことがある者が、博士号取得者にどれだけいるのであろうか。筆者自身が博士号を取得するまでは、基本的には論文を書いてさえいれば、研究者として認められる資格のようなものがもらえるという認識であった。実際に、教員が学生を”卒業させる”ために、共同研究に参加させて共著者として加え、なんとか論文を出版させる等という話も聞いたことがある。とにかく、論文を出せば、ある分野に関してそれなりに貢献をしたとみなされ、それを評価されることで博士号がもらえるという認識の者も多いのではないだろうか。

筆者自身は博士課程で研究を遂行する上で、上記の認識は少しずつ変化していったのではあるが、卒業間近に博士号を取得するということについて非常に的を射た文に出会った。

この教養教育論はそのまま、西欧近代科学における《博士号》(PhDとは「哲学博士号」の謂いである)の意義に通じる。博士号は、ふつうそう考えられているように、限られたある専門分野において精緻な研究をなしとげたことに対して授与されるものではない。それはある仮説を一定の科学研究の方法に則って推論・実証したことによって、以後いかなる主題においても同様の精緻な推論・実証ができるという、そのような技倆の認定として授与されるものである。だから専門分野以外の領域を「専門ではありませんので」と言って斥けるのは博士として失格である。博士号というのは本来、この分野に限ってなら何でも知り尽くしているということに対してではなく、いかなる未知の分野においてもそれに相応しい科学の方法を用いて確かな探究ができるという一般的能力に対して賦与される称号なのである。

鷲田 清一. 哲学の使い方

「科学の方法で探求ができる一般的能力」という部分が非常に的を得ていると筆者は感じる。これを実行するためには、自ら課題を発見する能力、実際に手や頭を使って調べる能力、そして考えをまとめアウトプットし、議論する能力等が求められる。特に課題発見能力は、どのように問いを行うかを考える研究の根幹であり、哲学にも深く関係すると思う。PhDはPhilosophiae Doctor(Doctor of Philosophy)の略であるのだから、哲学を無くして博士号を語ることは本来できないのではないのかもしれない。

エッセイ

上記の博士号に関する文だけでも、1000円分の価値はあると思い購入したが、学術研究のアウトプットの方法について考えさせられる部分があったので紹介したい。著者は鶴見俊輔氏の「アメリカ哲学」から次の文を引用し、学術論文以外での発表形式に関して言及している。

元来学術論文によって「……である」「……である」と厳しく断言する形式で哲学を発表することが哲学の唯一の発表形式と考えられるようになったのは、実は最近のことに属するので、昔からそうなのではない。プラトンの哲学は対話劇であり、<中略>、孔子は格言によって哲学を展開している。久しく学術論文の形に隠れてじめじめと個人的感慨および不平を滲出させてきた哲学は、再びこの殻を捨てて方々の領域に分散し始めようとしている。 

特に著者は本の中でエッセイを紹介している。

「エセー」という語は元来、「秤」や「腕試し」といった意味で用いられたが、そこから「思考を試しにかける」そのような精神を表すようになったのである。

と述べられているように、「エッセイ」の元々の由来を振り返りつつ、

エッセイを書くという《試み》は、そういう叙述のスタイルを見つけること、ひいてはあたらしい眼をもつことにもつながる。考えるというのは言葉が思考を紡ぐということだからだ。

と評価している。

筆者自身は今のところ、自然科学分野においては学術論文は研究成果を残す上で非常に良い方法であると考えている。しかし、それがいつの時代においても最適解ではないかもしれない。いつかは時代に即したもっと効率的な方法あるいは時代を切り開く画期的な方法が出てくるのかもしれない。形体によらず物事を柔軟に見つめ、アウトプットを行う習慣を立てることで、これからも成長していきたいと思わせてくれるよい本であった。

 

哲学の使い方 (岩波新書)

哲学の使い方 (岩波新書)